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栗木村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
栗木村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
栗木村(近世) 江戸期~明治8年の村名美濃国羽栗【はぐり】郡のうち尾張藩領村高は「慶長郷牒」「正保郷帳」で132石,「天保郷帳」で135石余,「旧高旧領」では132石東は薬師寺村,南は木曽川,西は奈良津新田,北は徳田村に隣接「濃州徇行記」によると当村は,たび重なる水損により,寛政年間の実際の高は約8石で,家数3・人数18・馬1匹であった明治元年より中山道伏見宿の助郷に出役同5年の村明細帳では,家数5,人数男8・女11で計19,農間稼ぎに男は藁仕事,女は糸引きをしたまた木曽川の堤の長さ46間半,板橋4神社に八幡宮・琴平宮がある同4年岐阜県に所属同8年円城寺村に合併... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
栗木村(近世) 江戸期~明治11年の村名三河国額田【ぬかた】郡のうち乙川中流域はじめ岡崎藩領,宝暦13年幕府領,明和7年からは岡崎藩領村高は,「寛永高附」125石余,寛文4年「岡崎郷領内在々之名」142石余,「元禄郷帳」127石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに142石余「岡崎藩万書上」では,寛政元年の人数88「三州岡崎管内記」によれば,東山中手永に属し,享和年間の収納定俵92俵余・上納竹9束寺社は,真宗高田派聖洞寺・白鬚神社明治7年の戸数20・人口96(額田郡誌)同11年才栗村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」